2007年12月11日
科挙について考えよう
科挙って知ってる?
科挙(かきょ、ピン音 kējǔ、英Imperial examination)とは、中国で598年?1905年、即ち隋から清の時代まで行われた官僚登用試験である。
「(試験)科目による選挙」を表す(現在の選挙とやや意味は異なり「選抜」に相当するが、優秀な人材を選ぶ手段という点では同じ)。基本的に身分その他がどのような者でも、受験を通じて学識が認められれば官僚として採用した。しかし、試験の競争率は熾烈を極めた。時代によって異なるが、約3000倍とも言われている。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、約36歳と言われている。
試験の内容は、時代ごとに変化があるが、儒教的な素養を問うものであった。
学識によって官僚を登用するとの点では、極めて開明的な制度であり、特に王朝の初期においては巨大な行政組織を担う人材を新規・大規模に発掘し登用するために、大きな効果があった。その一方で、時代を経るにつれ、合格者数に対して受験者数が増大し、過度の競争を生じるといった弊害も現れた。カンニングをするために、全体にびっしりと詩文の書かれた下着など、科挙の過酷さを伝える逸話も多い。官吏登用試験制度としては洗練されたものであるが、その反面、「書院」と呼ばれる学校制度の発達を阻碍した面を持っていることは否めない。
また、科挙は、官吏選抜試験という意味の他に、富・地位・名声・権力を手に入れる機会という意味にも解されていた。そのため、科挙は皇帝の一般人民に対する恩恵の一つであり、カンニングや買収などの不正行為は赦し難いものとされ、場合によっては死刑や宮刑などの酷刑まで行われた。
なお、科挙には武官を登用するものもあり、「武科挙」と呼ばれた。しかし、一般に「科挙」というと、文官を登用するもののみを指すことが多い。
科挙そのものは、当時において業績性を適える画期的な制度で、属性性社会において成し得ない広範な人材の発掘が可能となり、王朝の制度的疲労を遅延させる役割を果たした。また、その内容も当時の中国社会では常識と考えられていた儒教や漢詩などの知識とともに「策題」と呼ばれる政治論の執筆も課されていた。だが、次第に現実の経世には役立たない古典の暗記や作文などに偏重する向きもあり、また登用された官吏はマンダリンと外国人に揶揄された尊大さと民衆を睥睨する特権意識によって民衆の社会状況の改善には殆ど役立たなかった。また、官吏に対しての給与が法的に制度化されなかったために官僚=汚職という構造を生み出すことになった。
清朝末期、これらの官吏は新しい状況の変化に対応する能力を持たなかったことから、ペーパー試験偏重の登用制度の疑問が指摘されている。【ウィキペディアWikipediaより引用】
難しい問題ですよね。
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